3.11。成長せざるを得なかった日。

当ページのリンクには広告が含まれています。

 

 

2011年、3月11日。

私の住んでた地域は震度5強の、とても強い揺れでした。

津波はなかったものの、中学生にして人生最大の地震は、いつまでも忘れることはないと思います。

死を感じると、人は成長せざるを得ないのかもしれません。

 

10年という節目の年なので、忘れないように自分が経験したこと、感じたことを記録しておこうと思います。

 

 

 

スポンサーリンク
目次

地震が来る前の私

私は、ものすごく地震を恐れていた子供でした。

 少しでも揺れを感じると、すぐに机の下に隠れます。

 

また、日々シュミレーションをする癖があって、大きな地震が来たらこういうふうに行動するんだ。ということを、頭にいつも入れて過ごしていました。

 

不登校だったので、親が仕事に行っていれば昼間は家で一人です。

危機管理はばっちりしていた子供でした。

 

 

当日

不登校だったので、当日は家にいました。

両親は仕事。

兄は中学生3年生で、卒業直前だったので、友達と遊びに出かけていました。

 

つまり、私は家に1人だったのです。

 

2階の自分の部屋で、勉強をしていました。

すると、ものすごく小さな揺れを感じました。

 

地震だ!と思い、すぐに机の下に隠れます。

でも、いつまで経っても収まりません。

それどころか、どんどん大きくなっていきます。

 

そう、東日本大震災の特徴は、長い時間揺れ続け、どんどん大きくなるということです。

 

本棚から本が飛び出て、立ってもいられない。

人生で初めて、「死」を感じました。

 

一回目の揺れが収まっても、二回目、三回目と余震が続きました。

 

そんな中でも、火の元栓を消さないと、とか、水が止まる前にお風呂にためておこう、とか、そんなことを思っていました。

 

しばらくして落ち着いて、ようやくテレビをつけると、震源地は東北。

そして、次々と流れてくる津波の映像。

 

私のおばあちゃんは、仙台に一人で住んでいました。

心配でたまらないけど、電話してももちろんつながらない。

津波が来ない場所だとわかってはいても、不安で仕方がありませんでした。

 

私の家は、中学校から近い場所に合ったので、わざわざ心配して担任の先生が会いに来てくれました。

何かあったら学校に来るんだよ。そう言われて、とても安心したのを覚えています。

 

しばらくして、遊びに行ってた兄も帰ってきて、近所の子供たちも学校から帰ってきていました。

どこの家も、仕事に行っている親は帰ってきてないので、外で集まっていました。

近所の方におにぎりをもらったり、飲み物をもらったりして、助け合いの大事さをこの時ほど感じたことはありません。

 

そしてようやく、夜遅くなって、父と母が帰ってきました。

電車も止まってたので、バスだったり、徒歩で帰ってきたそうです。

 

母に会ったら、緊張がほぐれて大泣きする、と思いきや、別に大したことなかったのを覚えています。無事でほっとしただけでした。

想像よりもしっかりしていて、母もびっくりしたそうです。

 

やはり、一人きりであの地震を経験したことは、大きな自信になったんだと思います。

 

 

それからの生活

 3.11を境に、私の生活は大きく変わりました。

 

仙台に住んでいたおばあちゃんは家が半壊してしまったので、しばらく私の家で過ごすという変化がありました。

おばあちゃんのことは大好きだったので、初めは一緒に暮らせることがうれしかったです。

でもやっぱり、急に暮らしてなかった人と一緒に過ごすとなると、窮屈だと思う部分が増えてきます。

 

嫌いじゃないのに、大好きなはずなのに、一緒に過ごすのがつらい。

きっと、おばあちゃんだって慣れない土地で過ごすのはつらかったと思います。

 

もう一つの変化は、学校に通うようになったこと。

 

小学校一年生からの不登校だった私が、急に毎日学校に通うようになりました。

死を感じた地震の体験のおかげで、今までは怖がっていたり勇気が出なかったことも、大したことがないように思えたのです。

それと合わせて、家にはおばあちゃんがいるというのも一つの要因だったと思います。

 

とにかく、気持ちの面でものすごく成長したなと感じます。

 

 

半年後の夏に見た景色

地震から半年後の夏に、親戚がたくさんいる陸前高田市に行くことになりました。

父がその前に一度行っていたのですが、絶対に見ておいてほしいといわれて行くことにしました。

 

陸前高田市は、津波の被害が大きかったところです。

「奇跡の一本松」が有名ですね。

 

地震の前なら電車で行けたのに、線路が流されてしまって車で行くしかありません。

 

車で走るといっても、ちゃんとした道路があるわけではありません。

もちろん走る場所は決まっていますが、海に近くなればなるほど周りに何もなさ過ぎて、これを道路と呼んでいいのかわからなかったのです。

 

あの景色は本当に衝撃でした。

半年もたっているのに、海水を浴びた土は草も生えず、3.11の当時のままだったそうです。

学校の校庭に目いっぱいに仮設住宅が建てられ、これが同じ日本の光景なのかと唖然としました。

 

親戚の家はすべて流されなかったものの、家の中には津波の跡が至る所にありました。

 

私が見てきた景色は、きっと一生忘れないんだろうなと思いました。

 

10年たって思うこと

10年って、長いですよね。本当に。

私も学生生活が終わって大人になったし、成長しました。

 

でも、何よりもこの前一番驚いたのが、

今10歳以下の子供たちは、あの地震を経験していないってこと。

 

東日本にいなかったから30歳でも経験してない、とかじゃないんです。

あの日本中がパニックになっている状況を知らないっていうのが驚きなんです。

全国民が自粛して、テレビCMも同じものを繰り返したり。 

 

10年もたつと、さすがに忘れてしまう人も多いですよね。

そうやって、また地震が来てパニックになるのでしょうか。

 

思い出したくもない。そういう人がいるのも事実です。

でも、個人的には忘れてはいけないのではないかと思います。

こういうことがあったんだ、ということを伝えていく必要があるのではないでしょうか。

 

私はおばあちゃんになっても、覚えていたいな。

 

 

 最後までお読みいただきありがとうございました。

 

スポンサーリンク
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次